さまざまな罪によって八丈島へ追いやられた流人の中には、今もなお歴史に名前が残る有名な人物もいました。
今回はそんな歴史上の人物をご紹介します。
明日葉の歌を残した弓の名手・源為朝
源為朝は別名を鎮西八郎という平安時代に登場した武将で、剛弓を引いたことで知られる人物です。為朝は京の「保元の乱」で破れて伊豆沖の島へ流されますが、やがて伊豆七島を支配下に置くようになります。
その為朝が八丈島に着いたとき、島が女ばかりであることを不思議に思って問いただすと、彼女たちは秦の始皇帝の臣下・徐福が中国から連れてきた童女で、男女が一緒になると海神のたたりがあると恐れ、男は近くの青島に住んでいるとのこと。これを一笑に付した為朝はそこの女を妻として子を産ませ、男女が共に住むのが普通であるということを証明します。
ただ、このエピソードは滝沢馬琴の「椿説弓張月」の一説で、実際のところどうだったかはわかりません。しかし、少なくとも為朝は八丈島の人々の間では島の開拓者として英雄視されていることは確かです。
やがて為朝は島を去りますが、その際に残したといわれるのが、
「われなくも 行く末守れあしたぐさ はもする人のあらんかぎりは」
という歌です。もちろん、「あしたぐさ」とは明日葉のことです。
その後の為朝は大島に本拠地を構えるものの、あまりにも力をつけすぎたため、嘉応2年(1170年)に伊豆介狩野茂光に攻められ、32歳の若さで大島で自刃します。
しかし、義経が北へ逃れてチンギス・ハーンになったという説があるように、為朝もここで死なずに琉球や八丈島に渡って生き延びたという説もあります。
在島50年!関ヶ原の敗将・宇喜多中納言秀家
「流人明細帳」は流人の行われた島に残されている役人の記録で、新島や三宅島のほか、どこの流刑地にも残っています。これには流された日や乗ってきた船、罪名、居住地、人名、死亡または赦面年月日、年齢が記されています。
江戸時代に入ってからの最初の流人は、関ヶ原の敗将となった備前岡山藩主・宇喜多中納言秀家でした。秀家は秀吉に仕えた五大老の一人としてもよく知られる人物で、一旦薩摩の島津氏のもとへ逃れましたが、慶長11年(1606年)4月に八丈島へ流されました。秀家は在島50年、明暦元年(1655年)11月20日に84歳の高齢でこの島で没しています。
ちなみに、秀家の前にも八丈島には流刑者がいたといわれていますが、記録には残っていません。しかし、八丈島の「流人明細帳」では、寛永11年(1634年)の高木休菴父子とその従者5人の遠島から始まっています。
食べてもいないのに疱瘡が治った!? 徳川家継
宝永末期(1703~1710年)、関東全域が天然痘に襲われ、時の将軍・家宣の第4子(鍋松=のちの家継)も重態に陥りました。早速霊薬探しが始まり、明日葉が疱瘡に効果があるという話が伝わると、八丈島から取り寄せることになりました。
そして、八丈島から明日葉を積んだ船が房州新湊へ到着し、そこから陸路を江戸へと運ばれ、将軍家へ「はもせぬさきに落つる疱瘡」という一首と為朝明神の御神体を添えて献上されると、鍋松の病はたちどころに治り、元気を取り戻したということです。
これは八丈島に伝わるエピソードで、真偽のほどは定かではありませんが、明日葉が病気に対していかに大きな効果があるかを示す話ではあります。
これらの話には史実というよりも真偽が定かでない部分が多々あり、明日葉の健康効果を実証しうるものではありませんが、八丈島で長く暮らしていれば当然明日葉を口にする機会は多かったと思われますし、家継のケースに関しても、明日葉が効くと事前に聞いていたならば、まさに「病は気から」「信じる者は救われる」という意味で効果があったと考えてもいいのかもしれません。