体によいとされ、青汁やサプリメントなどの健康食品に使用されている明日葉ですが、いったいいつ頃からその存在を認められ、どのように人々の暮らしに浸透し、健康効果が期待されはじめたのでしょうか。
今回は明日葉の歴史に触れてみようと思います。
明日葉は縄文時代から存在した!?
明日葉の原産地である八丈島では、今から数千年前の縄文時代の遺跡が発見されています。
伊豆半島から南の洋上に続く伊豆諸島は、富士・箱根から南太平洋のマリアナ諸島にまで続く太平洋の飛び石公園の一部です。そして、伊豆七島・マリアナ弧と呼ばれる一大海底火山脈の頂上部がこれらの島々です。
八丈島は伊豆七島の南端に位置していますが、かつては地続きで伊豆半島から小さな舟で島伝いに渡航することができたと考えられます。これらのことから、八丈島には大昔から人間が住んでいたことは確かといえます。
また、明日葉が昔から八丈島にあったこと、そしてそれが常用野菜であり、時には老化を予防する霊草として用いられていたことなどが、島に伝わる数々の歴史的エピソードや史料、伝説、民話などによって明らかにされています。
薬草として「本草綱目」に記載
明日葉が登場する最も古い記録は中国の「本草綱目」といわれています。本草とは薬のもととなる草つまり薬草を指します。中国の明時代末期に薬学者・李時珍が著した書物で、のちにラテン語・フランス語・英語・ドイツ語・ロシア語などにも翻訳され、東洋だけでなく世界的な薬物学の名著となりました。
日本にこの本草綱目が渡来したのは、江戸時代初期の慶長11年(1606年)に林羅山が幕府に献上したときです。
日本で本草学を大成させたのは「養生訓」で知られる貝原益軒で、中国と日本の本草を対照して「大和本草」を宝永6年(1709年)に完成させました。この中で明日葉は、「アシタという草 八丈島の民多く植えて糧に充つ、江戸諸州にもアシタバを植う。…根は強壮薬として滋養に富む」と書かれています。
日本最初の百科事典「和漢三才図会」にも
日本最初の図入りの百科事典といわれる「和漢三才図会」は、医師であった寺島良安が正徳2年(1712年)に完成させた105巻の大著で、天地人の3つに分けてあらゆる物事を掲げ、それぞれに絵図と漢文の解説がつけられています。
この中で、明日葉は精密な絵図とともに「阿之太婆」という漢字があてられており、その効用として「小児がこれを食するとよく痘疹(疱瘡の発疹)をまぬがれるとされているが、その是非は知らない」と記されています。
明日葉の記述があるその他の記録
上記以外にも、明日葉にまつわる記録が残されています。
寛政8年(1796年)の春、幕命により伊豆代官三河国太忠が十数人を率いて八丈島に来島し、帰府後「伊豆日記」をまとめています。
また、これより少し後の時代には駿河国掛川藩が「掛川誌稿」を編纂しています。これは、藩主太田資愛(すけちか)が行なった文化事業のひとつで、郷土誌の先駆けともいうべきものです。
幕末期では、伊豆代官羽倉外記が天保9年(1838年)に伊豆諸島を巡察した際の記録「南汎日録」などがあります。
「南方海島志」は、秋山富南と彼の同郷の国学者でのちに三島神社少宮司を務めた萩原正平、その子正夫によって増補改訂され、明治34年3月に「伊豆七島志・三巻」として刊行されています。
これらの文献にも、明日葉が八丈島をはじめ伊豆の島々の住民の貴重な食料であることがて記述されているのです。
健康野草として注目され始めたのはごく最近
このように古くから薬草として書物に登場していた明日葉ですが、八丈島の人々はもともとから薬草として常用していたわけではなく、あくまでも手軽に利用できる野草の一種として料理に取り入れていました。明日葉が健康野草として注目されるようになったのは、実はごく最近のことなのです。
明日葉を常食している地元の人たちに長寿が多く、高齢になっても健康で若い人たちと同じように元気に働いていることから、その秘密が明日葉にあるらしいと考えられ、やがていろいろな有効成分が明らかになってくると急激に注目を浴びるようになったというわけです。
明日葉の故事来歴を記した記録は、拾い上げていくときりがないほど多く存在するといわれていますが、それらの文献からわかるのは、明日葉は黒潮が洗う温暖な海浜や島に自生し、昔から人々の生活と密接な関わりを持ってきた植物で、とりわけ八丈島では島人の命をつなぐ重要な役目を担ってきたらしいということです。