食の知識&健康

キノコの不思議 〜 キノコを知ってキノコ嫌いを克服しよう!

キノコの原木栽培とは?

日本人の好きなキノコNo.1でありながらも、嫌いなキノコNo.1でもあるシイタケ。でも、シイタケが嫌いと言う人の大半は、本当に美味しい原木栽培のシイタケを食べた事のない人だと見られます。何故なら、同じ人工栽培のキノコでも、菌床栽培と原木栽培とでは全く手間暇が異なり、原木栽培は限りなく自然栽培に近い絶品のキノコに成長するからです。

キノコの原木栽培の始まり

日本のキノコ栽培の歴史は思いのほか古く、江戸時代初期となる1700年代に遡ります。所は豊後国にあった佐伯藩(さえきはん)千怒の浦(ちぬのうら)、元かぐや姫の伊勢正三(いせしょうぞう)さんの生まれ故郷である大分県津久見市(つくみし)です。

という事で、昔々、大分県の東海岸に松下源兵衛(まつしたげんべい)というおじいさんが住んでいました。源兵衛さんの本職は炭焼きでしたが、生活が苦しかったため、時々海に出稼ぎに行っていたとも言われています。そんなある日、炭焼きで残ったクヌギの木の丸太を放置しておいたところ、なんと、シイタケが生えて居るではありませんか!! 何の特徴もないただの丸太ん棒です。ただ、優位いつ他の丸太と違っていたのは、ナタで傷つけたまま放ってあったという事でした。

そこで、他の丸太にもナタで傷を付け、しばらく様子を見る事にしたのであります。すると、同じようにシイタケの実る丸太が続出しました。そうして、この地での、そして、日本での人工的なシイタケ栽培が本格的に始まったのです。

とは言っても、当時は、取り敢えずクヌギの木にナタで傷を付け、そのナタ目の中に胞子が飛来して来るのを待つくらいの事しか人の力では出来ませんでした。しかも、例え胞子が定着しても、異なるDNAを持つ異性の胞子が同じ木で発芽し、菌糸を伸ばし、接合してくれるとは限っていません。そのため、中々大量生産には結びつかず、人工栽培とは名ばかりの殆ど自然栽培だったのです。

さらに、シイタケが子実体を作るのに好む湿度と室温の時期となると、春と秋だけという事で、それ以外の季節に収穫する事も出来ませんでした。ただ、そこは炭焼きの村、ならば、炭火で乾燥させれば長期保存が可能になるという事で、この時もうすでに干しシイタケは編み出されていたものと思われます。

キノコの原木栽培の進化

日本のキノコの人工栽培の歴史は、ナタ傷を付けたクヌギの木に飛来して来た胞子が定着してくれれば儲けもの、そんないかにも江戸時代らしい原始的な方法で始まりました。それでも、このシイタケ栽培が貧しい一つの村を救ったのは間違いありません。大分県下はもとより、九州一円、そして、海を渡った山口県でも、山奥のクヌギの森にこもり、シイタケ栽培に勤しむ人たちが続出。実は、ナタで傷を付けると言っても、胞子が付着しやすい大きさや角度などがあったため、それだけでも立派な職人技だったのです。そこで、本州に伝わった時には、“シイタケ製造には必ず豊後人を雇わずを得ず!”と言われるようになっていたと言います。

しかし、明治時代になると、そんな本州でも、様々な研究者がシイタケの人工栽培術を開拓して行きました。その草分け的存在となったのが、シイタケと木炭で日本を救った男と称される菌類学者:田中長嶺(たなかながね)氏です。なんと彼は1895年(明治28年)、菌糸の良く蔓延している丸太を粉末にして直接クヌギの木に振りかける手法を編み出したのです。すると、2歳年上だった公共事業家の楢崎圭三(ならさきけいぞう)氏は、そこに胞子も混ぜればより一層収穫率の上がる人工接種法となると提案。こうして、シイタケの人工栽培は本格的に進行して行ったのです。

その後1900年代に入ると、林学者の三村鐘三郎(みむらしょうざぶろう)氏により、胞子を大量に集めて水と混合した液体を作り、クヌギの木などに塗る方法が発案されました。さらに研究を重ねた三村博士は、すでに菌糸が定着している丸太の一片を切り取って別の木に埋め込めばいいではないかと思い付、自らの発想をどんどん発展させて行ったのです。

そうして昭和に入り、近代キノコ栽培の父と呼ばれる森本彦三郎(もりもとひこざぶろう)氏が登場。 1928年(昭和3年) 、ついにシイタケの菌糸が培養された鋸屑「鋸屑培養種菌(のこくずばいようたねきん)」の開発に成功します。これが日本初の種菌なるもので、10年後の1937年(昭和12年)、林業研究所の北島君三(きたじまくんぞう)博士らにより、「純粋培養種菌法」が編み出されると、科学的な生産が可能となって全国的に普及して行ったのです。

そしてそして、1942年(昭和17年)、京大卒の農学者:森喜作(もりきさく)博士は、これまでの先人の知恵を一括したような画期的な種菌を作り出しました。それが、私たちがよく目にする塩水型の木片で、中には成長した二次菌糸が入った「種駒(たねこま)」です。

この種駒は、今も尚、キノコの原木栽培の主流となる種菌で、他に、細かく削った鋸屑と培養菌を固めた整形種菌も使われます。また、ヒラタケなど、一部のキノコの原木栽培においては、種菌を塗布する方法も使われているという事で、完全なる文明社会となった現代においても、昔の人の知恵がそのまま受け継がれているのがキノコ栽培なのです。

2年の歳月を掛けて育つ原木栽培のキノコたち

キノコの原木栽培は、毎年秋の終わりに行われる丸太調達から始まります。使われるのは、太さが10センチから15センチ程度の樹齢10年から20年のナラやクヌギなど、どんぐりの木で、この丸太ん棒こそが『原木(げんぼく)』です。

ただし、キノコは枯れ木や枯れ葉を好物とする生物ですから、切ったばかりのみずみずしい木では育ちません。そこで、乾燥しやすいように、わざと枝や葉を付けたまま、1ヶ月程度放置し、乾かします。そして、その後で枝葉を切り落とし、さらに、長さ1メートルほどに切りそろえると、シイタケ狩りでよく見る丸太「原木」になる訳です。この原木作りを「玉切り」と呼び、本州では最も空気の乾燥する1月に行われます。

こうして原木が準備出来たら、いよいよ菌の仕込みです。「接種」や「菌打ち」などと呼ばれる作業で、原木にドリルで穴を開け、金槌を使って種駒を打ち込んで行きますが、何しろキノコたちは、この原木を酵素分解しながら栄養摂取して行く訳です。1本の木に沢山の種菌を打つと、栄養失調で共倒れしてしまいます。また、菌がしっかりと根を張るためにも、密度と配置を十分考え、原木の太さの4倍程度が望ましいとされています。つまり、直径10センチの原木なら、40個。それを出来るだけ列数が多くなるように配置して行く事がポイントで、穴の大きさも種駒に合わせる必要があります。

こうして出来上がったキノコの菌糸が一杯詰まった木を「榾木(ほだき)」と呼び、正真正銘キノコの原木です。とは言え、そのままバラバラに放置しておくと、外気にさらされた種駒の表面が乾燥してしまい、菌は死滅してしまいます。そこで、そういう事態を避けるべく、わざと原木を積み重ね、枝葉を被せて寝かせます。この状態を「仮伏せ(かりふせ)」と呼び、ゴールデンウィークの頃に風通しが良く、直射日光の殆ど当たらない林の中に入ると見かける事がありますが、決して丸太を雑に放置してある訳ではないのです。その証拠に、梅雨前になると、それまで積み重ねてあるだけだった原木たちが、井戸の蓋のような形「井桁(いげた)」模様に綺麗に組み立てられている事でしょう。この状態を「本伏せ(ほんふせ)」と呼び、本格的な菌糸の繁殖を待っている状態です。

そして、秋になると、今度は陽光がちらほら差し込むような湿度の高い林に集団でお引っ越し。改めて合掌造りのように組み直され、実りの時を待ちます。ただし、原木栽培のキノコの旬は春と秋で、お引っ越ししたばかりの原木のキノコが食べられるのは来年の春と秋。つまり、原木を切り出すところから、実に2年の年月を掛け、ようやく私たちの嘱託に乗るのです。

もちろん、その間、栽培農家のこまめな環境管理や衛生管理が行われる訳で、空調設備の整った菌床栽培の何倍もの時間と手間が詰まっています。しかも、豊作になるか不作になるかは天候にも大きく左右され、リスクの高い栽培法です。けれど、菌打ち後は殆ど自然のキノコと同じ条件で育つという事で、味も香りも絶品。菌床栽培とは比べものにならず、今までシイタケ嫌いだった子供たちもきっと、パクパク食べられる事でしょう。ただし、高価なので、これまた親としては困りものかも知れませんが・・・。

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